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東京地方裁判所 平成元年(ワ)13566号 判決 1990年8月21日

原告

マイケル・カミンス

被告

京王帝都電鉄株式会社

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、一三三万四九三四円及びこれに対する昭和六三年一〇月一九日から支払ずみまで年六分の割合による金員を支払え。

2  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  事故の発生

昭和六三年一〇月一八日午後九時二〇分ころ、原告は、被告の経営する井の頭線渋谷駅(以下「渋谷駅」という。)から下り電車(午後九時一九分渋谷発・吉祥寺行き・普通電車・五両編成、以下「本件電車」という。)の最後部車両に乗車し、混雑していたため右手で吊革に掴まり立つていたが、本件電車が渋谷駅を発車後まもなく急に加速したため、原告の周囲にいた多数の乗客が電車の後方に向けて将棋倒しになり、そのうちの数人が原告に寄り掛かるように倒れてきたため、これを右手で吊革に掴まりながら支えていた原告は右肩脱臼の傷害を受けた(以下、右事故を「本件事故」といい、原告の受けた傷害を「本件傷害」という。)。

2  被告の責任

被告は旅客運送を業とする株式会社であるが、原告は、渋谷駅で乗車券を購入したことにより被告と旅客運送契約を締結し、その上で本件電車に乗車していたところ、本件電車による運送のために本件傷害を受けたものである。

したがつて、被告は、旅客運送人として、原告を目的地まで安全に運送すべき債務を負担していたものであり、商法五九〇条一項に基づき、原告が本件事故により被つた後記損害を賠償すべき義務がある。

3  原告の損害

(一) 治療費 一万〇九九〇円

原告は、本件傷害について昭和六三年一〇月一九日から同年一一月一日まで林外科病院に通院して治療を受けたが、右治療費として一万〇九九〇円の支払を要した。

(二) 通院交通費 一五〇〇円

原告は、右通院のための交通費として一五〇〇円の支払を要した。

(三) 休業損害 七二万二四四四円

原告は、本件事故当時東京都立町田工業高等学校、東京女子医科大学、共立女子学園等において英語教師として稼働していたが、本件事故に遭遇して本件傷害を受けたため、昭和六三年一〇月一九日から同年一一月三〇日までの四三日間全く稼働することができず、七二万二四四四円の休業損害を被つた。

(四) 慰藉料 五〇万円

原告は、本件事故後最初に停車した神泉駅で降車し、本件電車の車掌及び同駅の係員に対して受傷の事実を告げて善処を求めたが、これらの者の対応には全く誠意がなく、また、その後の交渉においても被告の従業員は、「酔客が原告にぶつかつて肩を痛めたのだから賠償に応じることはできない。」などと述べ、ことさらに事実を歪曲した上で一方的に話合いを打ち切り、原告の精神的苦痛を増大させた。

したがつて、本件傷害の内容・程度のほか、このような被告の不誠実な態度に照らせば、原告が本件事故により被つた精神的苦痛を慰藉するためには、少なくとも五〇万円の支払を要する。

(五) 弁護士費用 一〇万円

原告は、本件訴訟の提起及び追行を原告訴訟代理人に委任し、相当額の費用及び報酬の支払を約したが、このうちの一〇万円は本件事故と相当因果関係のある損害として被告が賠償すべきものである。

4  よつて、原告は被告に対し、損害賠償として、一三三万四九三四円及びこれに対する本件事故の日の後である昭和六三年一〇月一九日から支払ずみまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(事故の発生)の事実のうち、被告が井の頭線を経営していること及び本件電車が混雑していたことは認めるが、その余は不知。

仮に、原告が本件電車内で本件傷害を受けたとしても、原告は、本件事故以前にも右肩を脱臼したことがあり、わずかな外力が加わつただけでも右肩脱臼に至る病癖を有していたものであるから、本件傷害は、本件電車が通常の運行をしていたにもかかわらず原告の右病癖により生じたものというべきである。

2  同2(被告の責任)の事実のうち、被告が旅客運送を業とする会社であることは認めるが、その余は不知ないし争う。

3  同3(原告の損害)の事実は不知ないし争う。

三  抗弁

被告又はその使用人は、原告の運送に関し注意を怠らなかつたから、原告が本件傷害を負うことによつて被つた損害につき賠償責任を負うものではない。

以下、この点について詳述する。

1  井の頭線下り普通電車の運行方法

井の頭線下り普通電車(以下「下り普通電車」という。)の運行は、被告が作成して陸運局に届け出ている井の頭線普通列車運転曲線(以下「運転曲線」という。)に則つて行われており、これによると下り普通電車が始発の渋谷駅を発車してから神泉駅に到着するまでの運転操作手順は次のとおりである。すなわち、運転士がノツチを入れると電車は渋谷駅を発車して徐々に速度を上げ、約一三秒後には渋谷駅から約五〇メートル進行した地点に至るが、この地点において運転士は転轍器のあるポイント通過に備えて一旦ノツチを切る(この時の速度は毎時約三〇キロメートル)。この後電車はしばらく惰性で進行するが、渋谷駅から約一七八メートル進行し、五両編成のうちの最後部車両が右ポイントを通過し終わる地点に達すると、運転士は線路上の「再力行位置」を示す標識(これを「力行標」という。)に従つて再びノツチを入れて加速する。そして、渋谷駅から約三〇〇メートル進行した地点に至ると、運転士は惰性運転を示す標識(これを「惰行標」という。)に従つてノツチを切り、その後約三〇〇メートル惰性で進行し、渋谷駅から約六〇〇メートル進行した地点に至つて運転士がブレーキをかけると、電車は徐々に速度を落として神泉駅に停車する。

ところで、運転曲線は、乗客の安全を最優先課題とし、車両の性能をも考慮に入れた上で、運転士が運転曲線に従つて運行していれば乗客に危険が及ぶことのないように作成されているものである。すなわち、下り普通電車に使用されている車両は三〇〇〇系という形式の車両であるが、この車両は最大限に加速しても一秒間に毎時二・六キロメートルの限度でしか加速することができないように設計されており、前記再力行位置に差しかかつた電車が毎時約二八キロメートル・毎秒約七・七七メートルの速度で進行しているとすると、この地点で運転士が最大限に加速したとしても一秒後の速度は毎秒八・四九メートルまで上がるにすぎない。したがつて、右一秒間に毎秒〇・七二メートル加速することとなるが、この程度の加速は、たとえ車内が混雑していたとしても乗客になんら危険を及ぼすものではなく、運転士が運転曲線に則つて運転している限り、乗客の安全は確保されているものである。

2  本件電車の運行の状況と被告の無過失

本件電車は、運転曲線の定めるとおりに運行されていたものであり、渋谷駅を発車してから神泉駅に到着するまでの間に、運転曲線に定められた運行方法を逸脱するような急加速が行われた事実はなく、また、乗客が将棋倒しになつた事実もなければ、原告以外の乗客から本件電車の運行について苦情を申し立てられたこともなかつた。

したがつて、このような本件電車の運行の状況を照らせば、被告又はその使用人が原告の運送に関し注意を怠らなかつたことは明らかである。

四  抗弁に対する認否

抗弁の主張は争う。

被告は、本件電車が運転曲線に則つて運転されていたとして、急加速により乗客が将棋倒しになつた事実はないと主張するが、たとえ加速操作が運転曲線に則つて行われる建前になつていたとしても、実際にその操作を行うのは運転士という生身の人間であり、運転士の個性あるいは技量が電車の運行に影響することは否定できないところであるから、右の建前をもつて急加速の事実を否定することはできない。

また、仮に本件電車が運転曲線に則つて運転されていたとしても、原告の乗車していた本件電車の最後部車両は立錐の余地もないほどに混雑していたのであり、車内がこのように混雑している場合に電車が加速するときには、慣性の作用により乗客が将棋倒しになるなどして、その生命又は身体等に損傷を被る危険のあることは容易に知り又は知りうることのできるものである。したがつて、車内がこのように混雑している場合には、旅客運送人としては、乗客の右危険を回避するために、車内がすいている場合よりなお一層慎重に加速操作を行うべきこと等の注意義務を負つているものというべきである。しかるに、本件電車の運転士である荒井敏晴は、これを怠つて、渋谷駅発車後まもなく本件電車を不用意に加速させ、車掌の吉田康人も加速の時期を乗客にアナウンスしなかつたため、本件事故が発生したものであるから、被告又はその使用人が原告の運送に関し注意を怠らなかつたとはいえないものというべきである。

第三証拠

証拠の関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録各記載のとおりであるから、これをここに引用する。

理由

一  請求原因1(事故の発生)の事実のうち、被告が井の頭線を経営していること及び本件電車が混雑していたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、いずれも成立に争いのない甲第五号証の一、乙第四号証、証人五十嵐銀作の証言により真正に成立したものと認められる甲第一号証、原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第六号証の一、二、弁論の全趣旨により瀧澤秀俊が平成二年六月一九日又は同月二六日に渋谷駅構内の状況を撮影した写真であると認めることのできる甲第九号証の一ないし一一(ただし、同号証の各写真がいずれも渋谷駅構内の状況を撮影したものであることは当事者間に争いがない。)、証人吉田康人及び同五十嵐銀作の各証言並びに原告本人尋問の結果を総合すると(ただし、原告本人尋問の結果中後記採用しない部分を除く。)、本件事故に至る経緯、本件事故時の状況等は次のとおりであると認めることができる。原告本人尋問の結果中この認定に反する部分は、その余の前掲各証拠と対比して採用することができず、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

1  昭和六三年一〇月一八日午後九時一八分ころ、原告は、被告の井の頭線下北沢駅へ向かうため、渋谷駅で乗車券を購入し本件電車の最後部車両に乗車したが、すでに多数の乗客が乗車していて空席がなかつたため、最後部の扉と車掌室のほぼ中間の位置に立ち、右手で吊革を掴み窓側を向いて本件電車の発車を待つていた。発車間際になつて最後部車両には更に多数の乗客が乗車してきたため、車内はかなりの混雑状態となり、原告の周囲には吊革や手すりに掴まることもできないまま多数の乗客が立つていた。

2  本件電車は定刻どおり午後九時一九分に渋谷駅を発車し、徐々に速度を上げていつたが、原告の乗車していた最後部車両が同駅のホームを離れようとするころ、本件電車の速度は更に増して、原告の周囲にいた乗客の多くが慣性の作用により電車後方の乗客に寄り掛かるような状態となつた。このため原告もすぐ隣にいた二人の女性から寄り掛かられる状態となり、その際は原告は右手で吊革を掴んだまま上体をねじつて同女らをよけたものの、その後も他の乗客が原告に寄り掛かつてきたため、原告の右肩に力が加わつて本件傷害が発生するに至つた。

3  本件電車は、原告の受傷後まもなく速度を落とし始め、渋谷駅を発車してから約一分後に神泉駅に到着したが、原告は、昭和四〇年ころにも一度右肩を脱臼したことがあり、その時の経験で脱臼した肩を元の状態に戻す方法も心得ていたので、本件電車が神泉駅に到着するまでの間に自力で脱臼した肩を元の状態に戻し、同駅に到着後直ちに降車して、本件電車の車掌等に対し車内で右肩を脱臼した旨を告げた。

二1  次に、請求原因2(被告の責任)の主張について判断する。

前示認定の事実によれば、原告は、渋谷駅で乗車券を購入し被告と旅客運送契約を締結した上で本件電車に乗車していたものであるから、被告は、旅客運送人として、原告を目的地まで安全に運送すべき債務を負担していたものというべきである。

2  被告は、原告の運送に関し、自己又はその使用人において注意を怠らなかつたから、原告に対し損害賠償責任を負わないと主張するので、以下、この点について検討することとする。

(一)  ところで、電車は、発車してから停車までの間、軌道上を加速、惰性運転及び減速を経るものであり、乗客が慣性の作用を受けることは当然の事態であり、乗客においてもかかる事態を熟知して乗車するのが通常であるから、電車による旅客運送を業とする者としては、通常の乗客が右のような事態に対応して安全を確保することができるような運転方法を採用し、立つている乗客の安全を確保するため通常用いられている吊革等の物的設備を設け、かつ、当該電車の運転者が右運転方法に従つて運転している場合には、右のような運転方法又は物的設備等では乗客の安全を確保することができないような特段の事情がない限り、たとえ乗客が電車の慣性の作用を受けて転倒し又は転倒した他の乗客に押される等して傷害を受けたとしても、商法五九〇条一項所定の免責事由があるものというべきであり、したがつて、右被害者が被つた損害につき賠償すべき責任を負わないものというべきである。

(二)  成立に争いのない乙第一号証、証人五十嵐銀作及び同吉田康人の各証言並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中この認定に反する部分は、その余の前掲各証拠と対比して採用することができず、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 下り普通電車の運行は、被告が作成して陸運局に届け出ている運転曲線に則つて行われており、下り普通電車が始発の渋谷駅を発車してから神泉駅に到着するまでの運転操作手順は次のとおりである。すなわち、運転士がノツチを入れると電車は渋谷駅を発車して徐々に速度を上げるが、約一一秒後には渋谷駅から約五〇メートルの地点に達し、運転士は転轍器のあるポイント通過に備えて一旦ノツチを切る(この時の速度は毎時約三〇キロメートル)。この後電車はしばらく惰性で進行するが、五両編成のうちの最後部車両が右ポイントを通過し終わる地点に至ると、運転士は線路上の再力行位置を示す力行標に従つて再びノツチを入れて加速する。そして、渋谷駅から約二八〇メートル進行した地点に至ると、運転士は惰性運転を示す惰行標に従つて再びノツチを切り(この時の速度は毎時約五四キロメートル)、約二〇〇メートル惰性で進行した後、渋谷駅から約四八〇メートルの地点付近で(この時の速度は毎時約四四キロメートル)ブレーキをかける。運転士がブレーキをかけると電車は徐々に速度を落とし、渋谷駅を発車してから約五六秒後に神泉駅に停車する。

(2) 運転曲線は、乗客の安全を最も優先して考え、下り普通電車に使用されている三〇〇〇系車両の加速・減速性能等をも考慮に入れた上で、運転士がこれに従つて運行していれば通常乗客に危険が及ぶことのないように作成された運転方法である。もつとも、減速方法については、乗客の混み具合等運行時の諸条件によつて制動に必要となる距離が異なるので、ブレーキをかける位置、ブレーキのかけ具合等につき運転士の判断、技量に委ねられている程度は比較的大きいといえるが、加速方法については、力行標の設置によりノツチを入れて加速する地点が示されており、運転士がこれに従つて加速していれば車両自体の加速性能等と相俟つて乗客の安全が確保されるように作成されている。そして、本件電車の運行も右運転曲線の定めるとおりに行われていたものであり、午後九時一九分に渋谷駅を発車してから約一分後に神泉駅に到着するまでの間、運転曲線に定められた運行方法を特に逸脱するような急加速が行われたことはなく、本件電車の運行に関し原告以外の乗客から被告に対して苦情が申し立てられたこともなかつた。

(3) 本件電車には立つている乗客の安全を確保するため通常用いられている吊革等の物的設備が設けられていた。

(三)  右に認定した事実によると、本件電車は、乗客の安全を最も優先して考え、下り普通電車に使用されている三〇〇〇系車両の加速性能等をも考慮に入れた上で、運転士がこれに従つて運行していれば通常乗客に危険が及ぶことのないように作成された運転曲線に則つて運行されていたものであり、しかも、渋谷駅を発車してから神泉駅に到着するまでの間には、右運転曲線を特に逸脱するような急加速が行われたこともなかつたものであるから、被告又はその使用人である本件電車の運転者及び車掌は原告の運送に関し注意を怠らなかつたものというべきである。

(四)  原告は、電車の乗客が多い場合には、乗客が将棋倒し等により傷害を受ける危険が増大するから、電車の加速は乗客が少ない場合よりもなお一層慎重に行われるべきである旨主張するが、本件電車につき前記特段の事情があつたことは本件全証拠をもつてしても認めがたいから、原告の右主張は採用することができない。

(五)  以上のとおり、被告の抗弁は理由があるから、被告は原告が本件傷害を受けることによつて被つた損害につき賠償すべき責任を負うことはないものというべきである。

三  よつて、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 柴田保幸 原田敏章 石原稚也)

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